1 :砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/ :2015/10/12(月) 12:07:16.15 ID:???
きょう10月12日夜7時よりTBS系で特番として「TBSもさんまも60歳 伝説のドラマ&バラエティー全部見せます!夢共演も大連発SP」が放送される。
これは、1955年にTBSの前身・ラジオ東京がテレビ放送を開始し、
また明石家さんまが誕生してから今年でちょうど60年を迎えたことから企画されたものだ。
番組では、さんまのMCにより、豪華ゲスト陣を迎えながらTBSと彼の60年の歴史を多くの秘蔵映像とともに振り返る。
なかでもさんまが出演した大ヒットドラマ「男女7人夏物語」のメインキャストが29年ぶりに再結集し、出演当時のエピソードを語るという大同窓会は見逃せない。
さんまをスターダムにのしあげたドラマたち
さんまの歩みを振り返ると、1980年代に出演した「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)などのバラエティ番組とあわせて、
そのときどきでのドラマに出演してはテレビの世界でスターダムにのしあがってきたことがうかがえる。
さんまは芸能界に入ったとき、テレビでは大阪・毎日放送の人気バラエティ番組「ヤングおー!おー!」に、ラジオでは「ヤングタウン」(毎日放送)と
「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)に出ること、それから大原麗子と堺正章と共演することを目標に立てたという。
これらのうち「オールナイトニッポン」はいうまでもなく、「ヤングおー!おー!」と「ヤングタウン」(「ヤンタン」と略称される)は桂三枝(現・文枝)らが出演して、
関西では若者の絶大な人気を誇っていた番組だ。さんまは「ヤングおー!おー!」に1976年、「ヤンタン」には「オールナイトニッポン」の第2部とあわせて
1979年よりレギュラー出演するようになる。
毎日放送の2番組への出演は、関西での彼の人気に火をつけた。
目標のひとつであった堺正章との共演もかなり早い時期に実現している。
1980年にTBSテレビで放送された堺主演の連続ドラマ「天皇の料理番」がそれだ。
さんまにとってこれが全国ネットのドラマ初出演だった。
このドラマの打ち上げの席でさんまは、脚本の鎌田敏夫から「いつか、きみ主演で恋愛ドラマをやりたいね」と言われたという。
その約束は6年後、前出の「男女7人夏物語」で果たされることになる(「本人」vol.11)。
この間1985年には、さんまはNHKの連続テレビ小説「澪つくし」にも、関西から千葉・銚子に流れてきた醤油職人・ラッパの弥太郎の役で出演した。
このころにはすでに「ひょうきん族」でブレイクしていたが、バラエティを見ない層にまで認知されるようになったのはNHKの朝ドラに出たことも大きかっただろう。
NHKの好感度タレント調査でさんまが1位となったのはこの翌年のことである。
ふたたび「男女7人夏物語」の話に戻せば、このドラマに自分が起用された理由について、
さんまは《ドラマのプロデューサーの方が、「ひょうきん族」でやられてもやられても笑顔で立ち上がってくるブラックデビルを見て、
やられてもやられても笑顔で這い上がってくる男のドラマが見たいと思ったから》と語っている(「AERA」2010年4月19日号)。
このプロデューサーとは番組制作会社・テレパックの武敬子のことだろう。
30歳前後の男女の恋のゆくえを描いた「男女7人夏物語」は好評を博し、続編として翌87年には「男女7人秋物語」が放送された。
さらに「男女7人」で共演したさんまと大竹しのぶを主演に、武敬子や鎌田敏夫らドラマのスタッフが再結集して
映画「いこか もどろか」も1988年に公開されている。これら一連の共演がきっかけでさんまと大竹が結婚したことは周知のとおりである(のち92年に離婚)。
「男女7人」で女性人気をつかみ、同時期には写真週刊誌「フライデー」編集部乱入で謹慎していたビートたけしに代わり、
「ひょうきん族」を支えたことでコメディアンとしても着実に力をつけていった。
タモリ・たけしと並び「ビッグ3」と称されるようになったのもこのころだ。
テレビにおける笑いの地位は、1980年代初めのマンザイブーム以降、急速に高まっていった。
さんまがドラマのメインキャストに抜擢され、かつヒットしたこと、さらに共演した実力派女優と結婚したことは、コメディアンの地位向上の総仕上げと捉えることもできそうだ。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20151012-00000003-exrev
2015/10/12 11:20エキレビ!
男女7人秋物語op SHOW ME ♪ 森川由加里
これは、1955年にTBSの前身・ラジオ東京がテレビ放送を開始し、
また明石家さんまが誕生してから今年でちょうど60年を迎えたことから企画されたものだ。
番組では、さんまのMCにより、豪華ゲスト陣を迎えながらTBSと彼の60年の歴史を多くの秘蔵映像とともに振り返る。
なかでもさんまが出演した大ヒットドラマ「男女7人夏物語」のメインキャストが29年ぶりに再結集し、出演当時のエピソードを語るという大同窓会は見逃せない。
さんまをスターダムにのしあげたドラマたち
さんまの歩みを振り返ると、1980年代に出演した「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)などのバラエティ番組とあわせて、
そのときどきでのドラマに出演してはテレビの世界でスターダムにのしあがってきたことがうかがえる。
さんまは芸能界に入ったとき、テレビでは大阪・毎日放送の人気バラエティ番組「ヤングおー!おー!」に、ラジオでは「ヤングタウン」(毎日放送)と
「オールナイトニッポン」(ニッポン放送)に出ること、それから大原麗子と堺正章と共演することを目標に立てたという。
これらのうち「オールナイトニッポン」はいうまでもなく、「ヤングおー!おー!」と「ヤングタウン」(「ヤンタン」と略称される)は桂三枝(現・文枝)らが出演して、
関西では若者の絶大な人気を誇っていた番組だ。さんまは「ヤングおー!おー!」に1976年、「ヤンタン」には「オールナイトニッポン」の第2部とあわせて
1979年よりレギュラー出演するようになる。
毎日放送の2番組への出演は、関西での彼の人気に火をつけた。
目標のひとつであった堺正章との共演もかなり早い時期に実現している。
1980年にTBSテレビで放送された堺主演の連続ドラマ「天皇の料理番」がそれだ。
さんまにとってこれが全国ネットのドラマ初出演だった。
このドラマの打ち上げの席でさんまは、脚本の鎌田敏夫から「いつか、きみ主演で恋愛ドラマをやりたいね」と言われたという。
その約束は6年後、前出の「男女7人夏物語」で果たされることになる(「本人」vol.11)。
この間1985年には、さんまはNHKの連続テレビ小説「澪つくし」にも、関西から千葉・銚子に流れてきた醤油職人・ラッパの弥太郎の役で出演した。
このころにはすでに「ひょうきん族」でブレイクしていたが、バラエティを見ない層にまで認知されるようになったのはNHKの朝ドラに出たことも大きかっただろう。
NHKの好感度タレント調査でさんまが1位となったのはこの翌年のことである。
ふたたび「男女7人夏物語」の話に戻せば、このドラマに自分が起用された理由について、
さんまは《ドラマのプロデューサーの方が、「ひょうきん族」でやられてもやられても笑顔で立ち上がってくるブラックデビルを見て、
やられてもやられても笑顔で這い上がってくる男のドラマが見たいと思ったから》と語っている(「AERA」2010年4月19日号)。
このプロデューサーとは番組制作会社・テレパックの武敬子のことだろう。
30歳前後の男女の恋のゆくえを描いた「男女7人夏物語」は好評を博し、続編として翌87年には「男女7人秋物語」が放送された。
さらに「男女7人」で共演したさんまと大竹しのぶを主演に、武敬子や鎌田敏夫らドラマのスタッフが再結集して
映画「いこか もどろか」も1988年に公開されている。これら一連の共演がきっかけでさんまと大竹が結婚したことは周知のとおりである(のち92年に離婚)。
「男女7人」で女性人気をつかみ、同時期には写真週刊誌「フライデー」編集部乱入で謹慎していたビートたけしに代わり、
「ひょうきん族」を支えたことでコメディアンとしても着実に力をつけていった。
タモリ・たけしと並び「ビッグ3」と称されるようになったのもこのころだ。
テレビにおける笑いの地位は、1980年代初めのマンザイブーム以降、急速に高まっていった。
さんまがドラマのメインキャストに抜擢され、かつヒットしたこと、さらに共演した実力派女優と結婚したことは、コメディアンの地位向上の総仕上げと捉えることもできそうだ。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20151012-00000003-exrev
2015/10/12 11:20エキレビ!
男女7人秋物語op SHOW ME ♪ 森川由加里